
電気工事
「100年しか生きられないから」大企業の内定を捨て、泥臭くも温かい“街の電気屋”を継いだ社長の覚悟。【株式会社Mでんき住設】
2026.07.22
株式会社Mでんき住設/代表取締役社長
山元 健作
父の無念、AIに負けない人間らしさ、そして家族をも巻き込む「幸せ」の追求に迫る。
鹿児島市を拠点に、地域密着型の家電製品の販売・設置やアンテナ工事といった電気屋本来の業務にとどまらず、住まいの困りごとを解決する独自サービス「M電丸サービス(お助け・除湿・軽作業等)」を提供しています。デジタルや効率化が進む時代だからこそ、対面での「人間らしさ」と「アナログな優しさ」を大切にし、地域の暮らしと家族の幸せを支え続けています。
──社名にある「M」は、何から来ているのでしょうか?
社長: これには父の歩みと、私たちの原点に関わる大きな理由があります。
実は私の父は、かつて地元の著名なM企業グループの家電事業を牽引する幹部でした。夜遅くまで仕事に情熱を注ぐ日々で、家庭にいる時間は短かったものの、子供ながらに「社員同士がなんて仲が良くて、みんなを大事にするいい会社なんだろう」という温かい印象が強く残っていました。父にとっても、その職場はまさに青春そのものだったのだと思います。転機が訪れたのは1995年です。市場環境の変化に伴い、その家電事業の解散が決定しました。当時、ナンバー2に近い立場にいた父は、共に汗を流した仲間たちの雇用や未来を守るため、最後まで奔走しました。組織の決定という現実に直面し、仲間との理想の居場所を存続させられなかった時の父の悔しさは、今でも忘れられません。
その後、父は「これまでお世話になった地域のお客様へ、自分たちのやり方で最高の恩返しがしたい。そのためには、もう一度自分たちの手でゼロからスタートを切るべきだ」と考えました。その前向きな覚悟が、今の私たちの第一歩となったのです。
最初は父と、もう一人の先輩社員の2人だけで、鹿児島市清水町の小さな店舗からリスタートを切りました。当時私は高校1年生で、夏休みにお小遣いをもらいながら手伝い始めたのが、この仕事における私の原点です。Mでんきの「M」は「みんなの電気屋さん」という、父が愛した前職のリスペクトと、地域のお客さんへの恩返しのドラマが隠されているんです。
──独自サービスである「M電丸サービス(お助け・除湿サービスなど)」を始めたきっかけは何だったのですか?
社長: きっかけは、商品を届ける際にお客様の困りごとを「ついでに手伝う」という、我が社に昔から根付いていたごく自然な習慣にあります。
例えば、洗濯機を納品しに伺った際、設置場所がものすごく汚れていたりすることがありますよね。私たちはそこを当たり前のように綺麗に掃除してあげる。その延長で、お客様から「ついでにそこの掃除機もかけてもらえる?」と言われれば、喜んでやっていたんです。ただ、最初はこれをビジネスとして事業化したり、強みとしてアピールしたりするつもりはサラサラありませんでした。「純粋にお客様が喜んでくれたら嬉しい」という想いだけだったんです。
でも、関係が深くていいお客様ほど、私たちがサービスで色々とやるのを見て「時間がかかって悪いから、次からはもう頼まないよ」と、逆に遠慮されるようになってしまって。15分程度で終わるような庭の木の剪定なども、私や先輩社員が「会社に内緒でこっそり手伝う」という状態になっていたくらいです(笑)。
隠れてやっていると、次の機会にお客様も頼みづらくなりますし、私たちも動きにくい。だったら、堂々と事業化して、若いスタッフたちも大手を振ってお手伝いに行ける環境を作ろうと思ったのが、サービス誕生の背景です。
以前、ある綺麗好きのご夫婦がいたのですが、奥様が亡くなられてから、75〜76歳の旦那様が男の一人暮らしで家を片付けられなくなってしまったことがありました。アンテナの調子が悪いというので伺ったら、お部屋の換気扇が油と桜島の灰だらけで…。同行したスタッフと2人で「10分か15分あればできるよね」と、頼まれてもいないのにピカピカに掃除をして、ゴミ袋に詰めて出しやすい場所に置いてあげたんです。
その旦那様は、言葉にできないほどものすごく喜んでくださいました。私たちがやったことは、日常の小さなお手伝いに過ぎません。だけど、お客様の心に深く届き、何より喜んでもらえる。これこそが私たちの仕事の誇りなんです。

──ネットやAIがこれだけ進化する時代だからこそ、そうした泥臭い「人間らしさ」や「アナログな温かみ」が心に深く響きますね。
社長: そうですね。自分たちの内側にある思想の一番先に来るものが、そのまま商売やサービスという形で表に出るのだと思っています。
もしも会社の人間関係がギスギスして殺伐としていたら、お客様へのサービスレベルや提供できる価値も絶対に下がります。だからこそ、私たちは社内の「絆」や、働くメンバー自身の「幸せの追求」を何よりも大切にしているんです。効率や利益だけを追い求めるAIや大手企業には、この泥臭い人間味は絶対に真似できない領域だと自負しています。
──社長ご自身は、新卒のタイミングでそのままお父様の会社に入られたのでしょうか?
社長: 実は、私の就職活動の時にはちょっとしたドラマがありまして(笑)。自分で言うのもなんですが、学生時代は本当に一生懸命勉強しました。就職活動でも、名古屋にある誰もが知るような超大企業から内定をいただいたんです。大学の就職課の先生も「新卒のプラチナチケットは一生に1回きりだから、思い通りにしなさい」と大喜びしてくれましたし、お盆明けには名古屋で内定者の華やかな懇親会も控えていました。
でも、お盆に鹿児島へ帰省した時、父の会社で一生懸命に汗を流しながら泥臭く働く先輩社員たちの姿を見て、ハッとさせられたんです。「都会に行けば絶対に刺激的で面白いし、海外赴任のチャンスもあって夢は広がる。だけど、それが本当に自分にとっての『幸せの価値』なのだろうか?」と、強烈な問いが生まれました。
私は、実は派手な環境にずっと身を置くと疲れてしまうタイプなんです(笑)。それに当時、鹿児島にいた大好きな祖父が危篤になった際、都会でバリバリ活躍している親戚の叔父が、どうしても仕事の都合で帰省できなかった姿を見て、強い疑問を感じていました。「大切な家族の近くにいられる幸せ」こそが、自分にとって一番価値があるんじゃないかと気付いたのです。
結局、私は名古屋の大企業へ行くのをやめ、「鹿児島の父の会社を手伝う」と決めました。当然、母は大反対でしたし、父もびっくりして困った顔をしていましたね。「お前を小さな電気屋にするために高い学費を払って大学に行かせたんじゃない!」とブチ切れて、一時は勘当されそうになりました。
でも、一度言った以上は引けないので、翌朝の飛行機で大学のある福岡に戻り、その足で就職課に辞退届を出しました。本当に当日の朝まで激しく迷いましたし、身近な人にも真剣に相談したりもしましたね。
その後、10月の私の誕生日まで母とは一時的に音信不通になりましたが、妹が間を繋いでくれて、誕生日の当日に母から「応援します、頑張ってください」という手紙が届いた時は、本当に涙が出るほど嬉しかったです。
「人間、所詮100年しか生きられない。なら、自分が本当にやりたいことをやろう。大切な家族や地元というローカルにフォーカスしよう」──20歳の若造だったあの時の決断は、今でも間違っていなかったと確信しています。
公式サイト:https://mdenki.jp/
公式Instagram:https://www.instagram.com/mdenki_new
